清水園の門
清水園の歴史

屏風のようにそびえ立つ二王子岳。その背後から端麗な姿をのぞかせる飯豊連峰。つらなる山並みを東にあおぐ、通称・阿賀北(阿賀野川北部)に10万石の城下町・新発田はあります。初夏はあざやかな緑、秋には稲穂の黄金色にそまる、水田にかこまれた静かな田園都市です。

こうした美しい水田は、江戸初期以降、農地づくりに励んだ先人たちの豊かなる遺産でもあります。

近世の新発田は、慶長3年(1598)に加賀大聖寺から6万石で領地に入った、溝口秀勝から始まります。秀勝を藩祖とする新発田藩は、12代直正の時代に廃藩置県を迎えるまで、274年間にわたり溝口家に統治されてきました。

慶長15年(1610)には沢海藩が分家されて表高は5万石になり、250年後の万廷元年(1860)には、幕府の海防体制を担うとして10万石に。3代宣直の時代になると幕藩体制が確立され、藩主の権力は安定していきました。 一方、藩をあげて取り組んでいた新田開発もおおいに進みます。藩財政も充実し、庶民の生活にもゆとりが生まれ、人々の意識はさまざまな方向へ発展しました。

そんな新発田藩の溝口家下屋敷(敷地4,600坪=15,180㎡)は、宣直の寛文6年(1666)に棟上げされ、4代重雄の元禄6年(1693)に完成。重雄の時代には、遠州流の茶人で幕府茶道方であった縣宗知が江戸から招かれ、庭園もつくられました。
※正確には4,600坪は×3.3058=15,200㎡です。

清新な気風がみなぎった、江戸の元禄文化の舞台はここ越後の新発田にもととのい、藩主や家臣らを茶の湯や能楽の世界へ誘うことになります。

このように、地方分化の機運を大きくかもし出した清水谷御殿でしたが、時の移ろいとともに役目が落ち着き、明治24年、越後屈指の大地主、沢海村の伊藤家の所有に、以後昭和21年には(財)北方文化博物館が管理するところとなりました。それに伴い沢海(現在の新潟市江南区)の北方文化博物館・本館の作庭を手掛けた庭師・田中泰阿弥氏が、清水谷御殿の全体を修復し、「清水園」として現在の姿となりました。池泉と一体となり景観に溶け込むような5つの茶室、京都から運んだ石を配し古記録と聞き込みに基づき修復した結果、越後から東北にかけて他に比を見ない名園となりました。(田中泰阿弥氏についてはこのページをご覧ください)。

門-紅葉